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日産そしてマリノスの物語の数々
木村和司・永遠の背番号10
プロ第一号とともに歩んだ日産自動車サッカー部

木村和司伝は多々あれどこれほどまでに思い入れの深い物語はない。
ハマスポに連載されたマリーシア永野将の渾身の作品。
紙面の都合で削除された部分も生かして、原文まま完全掲載です。

ついにこの日は訪れてしまった。
日産のそして日本代表の永遠の背番号10「木村和司の引退の日」である。

第一章 攻めて攻めて攻めまくれ

思えば日本リーグの誕生以来、日本のサッカー界にはずっと背番号10の似合う選手が出現しなかった。そして木村和司も日産に入団当時は背番号10の似合うプレーヤーというよりは、右サイドのウイングであった。そして、加茂周(現在の日本代表監督)がヤンマーからやってきて、最初に行ったことは木村和司のミッドフィルダーへのコンバートであった。200人くらいしか来ていない西ヶ丘サッカー場で「ワシによこせ」と吠えていたのが初めて見る木村和司だったと思う。

元々木村は天性のドリブル突破に加え、動きながらゲームの流れに沿って正確なパスを出す能力の高い選手でもあり、ゲームをコントロールするという意味でも、このコンバートは大成功ではなかったのだろうか。

そして、右サイドのゲームメイクを木村が、左サイドのゲームメイクを金田、やや引き気味な位置にマリーニョ、前線に水沼、柱谷という豪華な攻撃陣を擁し、初のタイトルである天皇杯を制覇する。相手は当時は読売よりも宿敵のヤンマー。釜本率いるヤンマーを2−0で下し、日産は初優勝する(金田からの左クロスを右45度の位置で受けた、柱谷のシュートがゴールネットの上を揺るがしたときはお涙ものでした) 。

金田、水沼の突破や柱谷のポストプレー、そして木村和司伝家の宝刀フリーキックと強力な攻撃パターンをもつ日産もこのころは大きな弱点があった。

豪華な攻撃陣のすべての選手が、守備が苦手な選手ばかりなのである。攻撃の全ての選手がもともとがフォワードの選手であり、怒涛の猛攻で点が取れないとカウンターを食らって点を取られてしまうのが当時の日産の負けのときのパターンであった。さらに、加茂監督は従来の日本の引いて守るカウンターサッカーを嫌い、攻撃陣と守備陣を非常に狭い間隔(今ではこのサッカーは当たり前になっているが・・・)において、ボールを試合するブロックディフェンス(ゾーンディフェンスの前身といえよう)を行おうとしていた。このため、守備陣の背後にボールを放り込まれてこのボールを支配されて決定的な機会をつくってしまうことも多々あった。

しかし、ノーガードで殴り合う「あしたのジョー」のようなサッカーは、当時の守備偏重(というよりは攻撃力のあるタレントが少ないので自ずとそうなってしまっていた)の日本のサッカー界にはセンセーショナルであったし、私は大好きだった。

JSLの1部に昇格後は、リーグのような長期戦(今のJリーグは1ステージ26試合、当時の日本リーグは年間で22試合・・・)では守備の弱点を露呈し、中位から下位をさまよい続けたが、天皇杯やJSLカップのような短期決戦では抜群の強さを見せつけた。

木村和司を語るときのもう一つは「ゴールへのあくなき執着心!」1980年代には日本のサッカー界は「シュートは強く打てばよい」といった習慣があり、ゴールマウスを狙って正確に打ち込んでくる選手は非常に少なかった。(フジタの手塚聞いてるか!?)この当時から木村のシュートは、スピードの前にまずコースがしっかりしていた。 そして、ゴール枠に飛んだときの弾かれると悔しがり、枠をはずすと恥ずかしそうにしてうつ向き戻っていく姿はよく覚えている。

1979年、大学3年で日本代表に選ばれた木村は、日本代表としても輝かしい足跡を残している。1983年には同僚の金田らとともにロサンゼルスオリンピックの予選に望むことになる
                          
そして、木村自身サッカー人生での1試合最多得点という、1試合6ゴールをフィリピン戦でたたき出す(この試合木村の背番号はなぜか11番、今の代表の同じ番号の選手も少しは見習って欲しいものです)。釜本邦茂以来、日本の代表には得点感覚に優れたストライカーが育たず(尾崎よ何でオランダに行ってしまったんだぁ!)、このロス5輪の代表チームは奇跡と言ってもいいくらいの選手のレベルであった(この前のワールドカップ予選の代表は酷すぎたから良く見えるという説もある・・・)。

日本はそして木村自身も大活躍するのだが、2次予選ではピアポン率いるタイの前に惨敗し(2−5)、その後もチームは勢いを取り戻すことができずオリンピックへの道が閉ざされてしまった(まだ閉じたままである。川口、松田、安永何とかしてこい!)。

しかし、木村和司は日本代表として、日本のサッカーの歴史が始まってはじめて背番号10の似合う選手となっていった。「森(現在のマリノスのGM)ファミリー」といわれた日本代表チームの攻撃の中心選手として、大活躍を続ける。

代表選手をずらりと揃えた日産もリーグでは相変わらずの守備のもろさを露呈しぱっとしなかったが、初制覇の翌年の天皇杯はベスト4(古河にPK負け、優勝は読売クラブ)、翌年の天皇杯は再び王座に返り咲き、日本のサッカー界の強豪の仲間入りをする。この年木村和司はチームと代表での活躍が認められて、前年に続いて国内最優秀選手に輝く。

今にして思えば、「森ファミリー」といわれた森日本代表は、日本で初めて組織的なディフェンスと、インテリジェンスのある攻撃陣が揃った、歴代最強の日本代表チームだったような気がする(悪いけどオフト全日本と試合したら8−0でかつと思う!)。松井、石神、加藤、都並、西村、水沼、特に攻撃陣は、水沼のひらめき、柱谷の突破、原のヘディング、そして木村の伝家の宝刀フリーキックと、かつて無いほどの豪華なタレント集団に成長しメキシコワールドカップの予選へと進んでいく。
                         
1次予選最大のライバルといわれた北朝鮮との雨中の決戦、「頭の原が足で決めました」という名せりふを生んだ一戦ともなった。1次予選でライバルの北朝鮮を振り切った日本代表は2次予選に駒を進め、香港を撃破!そして、ついに運命の一戦となった韓国戦を迎える。

ここでの活躍は、雑誌等でよく紹介されているのであえて割愛させてもらうが、木村が日本代表として残した数々の歴史は、この森ファミリーのときだけであるのは木村の実直な性格の現れではないだろうかと思う。そして森日本代表の唯一の大学生である順天堂大学の平川弘が翌年日産に入団する。
                         
1986年に入り、日本には2人のプロフェッショナルプレーヤーが誕生する。一人はブンデスリーガで活躍した「奥寺康彦」、そして純国産の初めてのプロフェッショナルプレーヤー「木村和司」である。このころから国内では「リーグプロ化」の声が高まり出す。そして、これまで「日本リーグ東西対抗戦」として毎年行われていたサッカーのオールスター戦は、コダックというスポンサーを冠にして、初めての賞金大会「コダックオールスターサッカー」として行われた。

結果試合は引き分けであったが、最優秀選手は奥寺が獲得した。そして日本リーグの開幕。誰もが木村、奥寺の大活躍を予想したが、木村は極度の不振に陥る。 日本代表でのトレーニング方法が日産のトレーニング方法と違ったため、木村の最大の肉体的武器である。内転筋が非常に落ちていたのである(これは後にプレスの人から聞いた話ですが・・・)。このため、パス、シュートの精度と威力が落ちてしまったらしい。
                         
そして、メディアの世界でも一大改革があった。それまでサッカー誌といえば「サッカーマガジン」「サッカーダイジェスト」の2誌しかなかったが、これに「ストライカー」が参画してきたのである。前誌は国内記事をベースに、後誌は海外記事をベースにしていたが、ストライカーは「サッカーの技術誌」というスタンスで参加してきた。この創刊号の特集は「釜本邦茂のインステップキック、インサイドキック」と「木村和司のフリーキック」であった。今にして思えば、きちんとした引退試合を行った選手は実にこの二人だけではないでしょうか?

この不振の中、木村和司は太股の肉離れなどを起こし、戦列を離脱する。しかしこれとは裏腹にチームはリーグ優勝戦線に食らいつき出すが、結果は3位であった。